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香春岳と五木寛之「青春の門」

筑豊のセメント山〈香春(かわら)岳〉と五木寛之「青春の門」
                                                                  (会員 藤原昧々)

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 2012年2月の末に、北九州は田川市石炭・歴史博物館主催の「山本作兵衛コレクション展」を見に行ってきた。 明治・大正・昭和にわたる筑豊炭鉱の歴史を身をもって体験された山本氏が60の歳から絵筆をとって描きつづけた坑夫たちの労働と生活の姿が丹念・克明に記された絵画記録で、学生のころ作家上野英信氏の本で知って私は当時から関心をよせていた。 今回その人の絵や日記類を実際に眼にする念願がやっとかなったのだった。
 小倉から日田彦山線の電車に乗り、途中長いトンネルを抜けると左手に、右端の山がテーブル状に削られた三つ子山の風変わりな姿が目にとまった。 田川市の博物館からその連山は町並みの上にくっきりと望め、そのとき、この山が香春岳(かわらだけ)という名のセメント山であることを知った。 帰って調べてみると、この山もやはり由緒ある信仰と伝承の山であり、自然も豊かで、存在する植物種数は今も1200種に及ぶといい、コケも全国でここだけにしか存在しない種があるという。 坑内掘りの石炭とちがって石灰岩は露天掘りであり、採算にみあう限り、抉り削りとられて消滅させられる。 日本の石灰山がいずれも学術上貴重な自然を蔵しながら消滅してゆく。 無念でならない。 文明の原罪というか経済文化の恩恵に生きる人間の心のトゲでもある。
 博物館から撮影した写真では、手前の削られた山が「一の岳」であり、奥に向かって「二の岳」「三の岳」となり、登山対象は「三の岳」のみとなる。
 「一の岳」の変貌について、「関門通信/ガゾーン」の記事には、以下のように記されていた。
「1935年(昭和10年)に日本セメントが採掘を開始し、同山の標高は492mから270mに低下した。平尾台の石灰石鉱山では山の斜面が虫食い状態だが、香春鉱山は周囲が住宅地のため落石を防ぐ必要があったのか、山頂を切り取った後に内側をベンチカット方式で切り込んでいる。まっ平らな山頂を地域住民は複雑な心境で見上げる。」と。
なお、香春岳当初の操業は旧浅野セメント(現太平洋セメント)とする記述もある。
藤原岳山頂鉱区の場合、対象が標高600mまでとされるが、山頂1000m余からどのようなえぐられ方をするのかが気になる。

その香春岳が五木寛之氏の大作「青春の門」の冒頭にあたる「筑豊扁」の第一章に描かれていると知り、さっそく図書館で開けてみた。 なお、種田山頭火も採掘前後の香春岳を旅中で目にしていたという。
縦書きの日本の文学作品を横書きで紹介するのには抵抗があるが、事情によりご寛恕いただきたい。 下線は私が記した。

 「香春岳は異様な山である。
 決して高い山ではないが、そのあたえる印象が異様なのだ。
 福岡市から国道二百一号線を車で走り、八木山峠をこえて飯塚市を抜け、さらにカラス峠とよばれる峠道をくだりにかかると、不意に奇怪な山容が左手にぬっと現れる。標高にくらべて、実際よりはるかに巨大な感じをあたえるのは、平野部からいきなり急角度でそびえているからだろう。南寄りの最も高い峰から一の岳、二の岳、三の岳と続く。
一の岳は、その中腹から上が、醜く切りとられて、牡蠣色の地肌が残酷な感じで露出している。 山麓のセメント工場が、原石をとるために数十年にわたって休まずに削り続けた結果である。
 雲の低くたれこめた暗い日など、それは膿んで崩れた大地のおできのような印象を見る者にあたえる。それでいて、なぜかこちら側の気持ちに強く突き刺さってくる奇怪な魅力がその山容にはあるようだ。 目をそむけたくなるような無気味なものと、いやでも振り返ってみずにはいられないような何かがからみあって、香春岳のその異様な印象を合成しているのかもしれない。 かつて戦国時代に、この一の岳に築かれた不落の名城があったという。その城を〈鬼ヶ城〉と呼んだそうだが、いかにも香春岳にふさわしい異様な山城のすがたが霧の奥から浮かび上がってくるような気がしないでもない。
               (中略)
 曇天の下、頭部を醜く削りとられた香春連峰一の岳が屹立するすがたは、なぜか現在の筑豊のおかれている奇怪な現実を無言のうちに象徴しているようだ。 明治の会社炭鉱(ヤマ)開発以来、いくつかの戦争をはさんで劇的な盛衰をくり返してきたこの川筋の平野に、香春岳はいまセメント会社の手で少しずつその山容を、低く、平らに変えつづけて行こうとしている。
 やがていつかは、香春連峰、一の岳の名が、かつて筑豊に存在した今はなき幻の山として伝説のように語られる日がやってくるのかもしれない。
               (中略)
 伊吹信介は、子供の頃から香春岳を眺めるのが好きだった。
 彼が物心ついた頃は、すでに香春岳のセメント採掘は始まっている。 正確に言うと、信介の生まれたのと同じ年、つまり昭和十年にセメント会社は山を削りはじめたのだ。
 彼が生まれてはじめて香春岳を意識したのは、父親の背中におぶさって、栄町の通りを帰ってくる朝のことだった。
 どこから帰ってくるところだったのか、何のためだったか、その時の幼い信介にはまったくわかってはいない。ただ、父親の背中でうしろを振り返ったとき、正面に異様なまでに大きな山が見えたのだ。その山肌に傷ついたような白い裂け目があり、朝日の色に赤く染まって輝いていたのを彼ははっきりと憶えている。
                (中略)
 その時、白い花輪の並ぶ小さな家々のかなたにあの香春岳があった。そしてその頂上のあたりは削りとられて白く無残に陽にはえていた。その部分は、まるで山の骨が肉を破って露出しているように見えた。」                       (引用、以上)

 因みに、藤原岳が太平洋セメントの前身会社によって採掘されはじめた年は昭和8年であり、香春岳採掘よりわずか2年前である。

 さて、過去2億トンもの石灰を採掘してきた秩父の名山、武甲山は2000年3月末についに第一プラントの操業が休止され、セメント産業の斜陽化は誰の目にも明らかになった。 さらなる不況のため太平洋セメントは土佐・大分・秩父の3工場でも2010年中にセメント生産を大巾に中止し、同社生産全体量の13%にあたる310万トンを削減したという。  この香春岳の場合も生産縮小化の流れにそって生産工場の閉鎖と石灰採掘主体の他会社への移行が最近行われたという。

 このように見てくると、50年にわたる藤原岳鉱区拡張の計画も今後永久に会社が責任をもって緑化や自然保護に取り組んでいくだろうという甘い期待への保障はどこにもない。 閉鎖と失業の陰で失う自然の価値はあまりにも大きすぎる。 どこかで根本的な視点の転換と、惰性からの覚醒が必要になろう。
                                                          2012.8.4 記